はじめに
もともとこの記事は、とある就労支援事業所で採用されていたノウハウを「自己否定フレームワーク」として言語化してみました。別に内部告発とかそういう類ではないので伏せられるところは伏せまくっています。
このフレームワークは、人材育成・業務フロー・ステークホルダーとの関係をすべて「精神論」で回そうとする極めて危険な運用思想に基づいています。以下に各要素ごとにその構造と問題点を考察してみたいと思います。
1. 業務フローにおける問題構造
特徴: 業務は手順化や標準化が軽視(ないor形だけ)され、「とにかくやれ」「慣れろ」「つべこべ言うな」といった精神論ベースで回される。
問題点: 作業効率の低下、属人化、事故・ミスの増加が起こりやすい。また、個人の不調や不安は無視されるため、離職率が高まりやすい。
思想的背景: 「現場で学ぶ」「苦労して覚えるのが美徳」といった昭和的マインドセットが根底にある。
2. 人材育成における問題構造
特徴: 支援や配慮を求めると「甘え」とされ、自助努力一辺倒。失敗は自己責任、成功は組織の手柄。
問題点: 本来支援されるべき特性持ちの人材が潰れる。成長支援が不在のため、属人的な「耐久力」だけが評価される風土となる。
思想的背景: 「育成とは厳しさで鍛えること」「できないやつは去れ」という排除型思考。
3. ステークホルダーとの関係における問題構造
特徴: 上下関係を明確にし、支配―服従の構図が職員―利用者間に形成される。意見・苦情は敵意として処理され、人事権を行使されることもある。
問題点: 利用者が精神的に抑圧される。声を上げる文化が育たず、組織改善が起きない。現場の知見が蓄積されず、再発防止策も講じられない。
思想的背景: 「管理する側が正しい」「組織は個人より上位にある」といった前近代的な価値観。
4. 自己否定フレームワーク運用の思想分析
構造的特徴:
- 問題は個人の責任に集約(構造問題の隠蔽)
- 権限と責任が不一致(支援者は権限のみ、責任は利用者に転嫁)
- 自己決定権の抑圧(従属の強制)
- 評価は主観的・感情的(空気で判断)
根底思想:
- “順応できない者はふるい落とすべき”
- “生き残る者こそ価値がある”
- “社会に適応するためには自己を捨てろ”
結果として:
- 精神疾患の誘発
- 離脱者の増加
- 利用者が社会的に孤立
- 利用者・職員双方にとって不幸な結果
5. 「何もしない人が一番強い」という構造
現象: リーダーや発案者など、アクションを起こす人間から順に離脱(退職)していき、最終的に「沈黙と同調」することができる人間だけが残る構造が生まれる。
問題点: 意思決定・業務改善・顧客対応など、組織としての前進を図る行動が忌避される。残る人材は事業への貢献意識が乏しく、現場の形骸化が進行する。
思想的背景: 「動いた者が負け」「出る杭は打たれる」「無風こそ最適」というリスク回避思考と事なかれ主義。
結果:
- イノベーションが生まれない
- 有益な人材が流出
- 責任ある行動を忌避する空気が蔓延
- 利益を生まない形だけの事業所へと衰退
6. 他の主要フレームワークとの比較
根性論的フレームワークがいかに異質で非建設的な思想に基づいているかを明らかにするため、以下のような比較を行います。
a. ダニエル・ピンクのモチベーション3.0理論(内発的動機づけ理論)
観点 | 自己否定フレームワーク | モチベーション3.0 |
動機付けの核 | 苦痛・強制・従属 | 自律性・熟達・目的 |
評価 | 忍耐力・忠誠心・同調性 | 学習・成長・創造性 |
結果 | 精神疲弊・離職・抑圧 | 自律的成長・創造的貢献 |
コメント: 根性論は「鞭を打って走らせる」思想に近く、ピンクの理論とは真逆のベクトル。内発的動機を殺す方向に作用する。
b. サーヴァント・リーダーシップ
観点 | 自己否定フレームワーク | サーヴァント・リーダーシップ |
権限構造 | 支配・命令型 | 支援・共感型 |
成長概念 | 厳しさでふるいにかける | 人を育てて活かす |
利用者との関係 | 被支配・服従 | 信頼・共創 |
コメント: 根性論的組織では「支援」は弱さの象徴となるが、サーヴァント的組織では「支援」が最大の強み。思想の軸が180度異なる。
c. リーン思考(Lean Thinking)
観点 | 自己否定フレームワーク | リーン思考 |
業務改善 | 精神力で耐える | 無駄の可視化と排除 |
問題解決 | 個人責任と精神論 | チームでの構造的解決 |
価値の定義 | 空気と上司の機嫌 | 顧客価値に直結した行動 |
コメント: リーンでは「仕組みが悪ければ仕組みを直せ」が基本だが、根性論では「仕組みが悪くても人が我慢しろ」となる。
d. 心理的安全性(Googleのプロジェクト・アリストテレス)
観点 | 自己否定フレームワーク | 心理的安全性のある組織 |
発言の自由 | 萎縮・抑圧 | 発言・共有が推奨される |
ミスへの対応 | 懲罰・無視 | 学習の機会と捉える |
チーム文化 | 「黙って従え」 | 「共に考えよう」 |
コメント: 根性論文化は心理的安全性の真逆にあり、特にASD・ADHD特性を持つ人間には生き地獄のような環境となる。
7.業務遂行における思考の違い(根性論 vs 現実的運用)
a. 問題の捉え方:個人責任 vs 構造分析
- 根性論的思考:「できないのは努力不足」「慣れればできるようになる」など、問題を常に個人に帰属。
- 現実的思考:「このタスクはなぜ詰まるのか?」という構造分析を行い、業務設計や環境に原因を探す。
b. 業務改善アプローチ:我慢 vs 仕組み
- 根性論: 「辛抱しろ」「そのうち慣れる」で済ませる。改善提案は「出しゃばり」とされる。
- 現実的: 作業のボトルネックを分析・可視化し、業務手順・道具・分担を見直して生産性を上げる。
c. エラー対応:懲罰型 vs 学習型
- 根性論: ミスは「気合が足りない」「確認不足」で片付け、叱責や排除が中心。
- 現実的: エラー発生の背景をチームで分析し、再発防止策を共有する「学習の機会」と捉える。
d. 役割分担:精神論ベース vs 合理的マッチング
- 根性論:「文句を言わずに何でもやれ」的全能要求。役割に適性や負荷は考慮されにくい。
- 現実的: 個々のスキル・特性・経験に基づいて適切な役割を設計し、チーム全体で最適化する。
8. 医学モデルと社会モデルから見た評価
医学モデル的側面: この事業所では、利用者が困難を抱える理由を「障害特性」ではなく「努力不足」や「人格の未熟さ」として説明する傾向が強い。これは、個人の内在的な欠陥を矯正・治療の対象とみなす典型的な医学モデルに一致する。
社会モデル的側面: 一方で、社会モデル(環境的配慮・制度的整備)に基づいた合理的支援の視点は非常に希薄であり、利用者の困難を生む環境側の要因(支援不足、構造的障壁など)へのアプローチが存在しない。これは社会モデルから大きく乖離した状態である。
9. 利用者に与えられる烙印と「真なる人間」への矯正思想
構造: 事業所に足を踏み入れた時点で、「社会で通用しない人」としての烙印が押され、その状態から脱することが“社会復帰”と定義されている。つまり、元のままの特性を活かす発想ではなく、「真の人間=社会に適応した理想的市民」になることを目的とした矯正プログラムが展開される。
問題点:
- 利用者の多様性を否定し、均質な「型」に押し込めることが支援とされる
- 障害特性を活かすどころか、隠蔽・抑圧する方向での行動を強制される
- 自己否定を内在化させることで、表面上の順応を演出させられる
思想的背景:
- 「劣っているから来ている」という認識の押しつけ
- 「自分を変えられる者だけが生き残る」という選別思想
- 「この場で認められること=社会で通用すること」という疑似社会主義的世界観
10. 支援対象への「暗黙の治癒要求」と適応圧
現象
ASD/ADHDなどの発達特性を持つ人が感じる「適応しろ」という無言の圧力は、しばしば「障害を克服せよ=治せ」というメッセージとして受け取られる。表面上は配慮を装っていても、実際の支援内容や対応の一貫性が欠如しており、特性に対する深い理解が見られない。
問題点
- 本人の困難を「甘え」や「努力不足」として処理される
- 実現不可能な改善要求が繰り返され、自己否定感を助長する
- 表面的な「自主性尊重」が強調される一方、選択肢は用意されておらず、実質的には“指示に従う以外の道”が排除されている(指示に従うか退職しかない)
- 個別の工夫や代替手段を提案しても「普通にやればいいのに」と一蹴される
思想的背景:
- 「正常性の回復=社会的成功」という価値観が強く、障害特性を長期的に付き合うものとして捉える視点が欠如
- 「自己責任の名のもとに苦痛を黙認する」風土が蔓延しており、個人の生きづらさへの共感が極めて乏しい
結果:
- 支援の名を借りた同化圧力(マジョリティに“近づけること”が目的化)
- “適応できないならあなたが悪い”という構造的暴力
- 自己理解と他者理解の両方が妨げられ、内在的アイデンティティと社会との橋渡しが断たれる
- 自己肯定感の低下、適応不能感、社会的孤立
補足視点:
- ASD/ADHDの特性は「治すもの」ではなく「付き合い方を設計するもの」
- 対話と柔軟性こそが支援の中核であるべきであり、画一的な適応を強いることは逆機能的
11.総括:組織の顔をした呪いの構造
この「自己否定フレームワーク」は、組織の体裁をとりながら実態は個人を摩耗させる呪いの構造に近いものです。本来、就労支援とは「弱さを前提にし、それでも社会と接続する方法を一緒に探る」行為であるはずです。しかし、この枠組みでは、弱さを隠し、痛みを我慢し、自己を切り捨てて適応することが支援とすり替えられている。
組織は言います、「本人のため」「社会で生きていくために必要だ」と。だがその実態は、「あなたがあなたである限り、ここではやっていけない」と突きつけることに他なりません。これは支援ではなく、自己否定の強要です。
その思想は静かに利用者の内部へ浸透し、「自分が悪いのではないか」「まだ努力が足りないのではないか」という無限の内省を生み、やがて自己像を損なっていく。事業所が構造的な支援を怠っているにも関わらず、改善責任は全て当事者に押し付けられるという、きわめて構造的暴力に近い支援の不在です。
加えて、声を上げる者が先に潰れ、何もしない者が残るという歪んだ選別機能が作用し、「現場の維持」が目的化された段階で、もはや組織は組織としての体を成しません。そこには未来も、成長も、回復もありません。結局のところ、このフレームワークが成立してしまう最大の理由は、「従順な沈黙」が最も高く評価されるという、進化を拒む文化の存在にあります。そんな場に、誰が希望を見出せるでしょうか。