「困った人」というレッテルと、健常者の隠れた脆弱性

おことわり

この記事は次回バージョンの作成をすすめております。暫定的なバージョンとして期間を限定して公開します。

はじめに

昨日から熱が出ています。感染症ではなくアレルギー反応です。熱が出てるときにはブログが良いとばっちゃが言っていたので書いた次第です。本来ならばF1の記事(マックス・フェルスタッペンの育休(もしかしたら?)の話が飛び込んできた)について唐突に書きたかったのですが、そこまでF1に詳しいわけでもないし、この世界にはもっと得意な人が大勢いますし、どうしても「いかがでしたか?」的な感じになりそうだったので、今回は違うテーマにしました。個人的には、マックスの子どもというより、むしろ「ヨス」の孫というイメージの方が強いです。ヨスとか知ってると年がバレますね(あえて狙ってます)

さて、最近、「特定のカテゴリーの障害を持った人をナマケモノやサルなど、動物で表現する」という書籍が近々出るようです。メディアの質問には「差別意図はない」との回答がありましたが、その意図のなさが逆にすごくナチュラルで危ういですね。もし意図がなくても、結果的に「差別」と受け取られるのであれば、もうその効果が出てしまっているということ。これってかなりリスクがありますよね。

書籍の出版の是非については、多少怪しさを感じつつも、公序良俗にはたぶん反していないし、法的にも問題ないので、出されるなら別にいいと思います。しかし、当事者たちがこの問題に対抗できる声と場を持っているかという点が心配です。こういう場合、構造が固定化されていることが多くて、反論するには不均衡な力関係があると思います。

今回は、この書籍(まだ発売前ですが)に関連する問題を少しだけ掘り下げてみたいと思います。

その手の属性の方向けに「肩を持った」ようなポジションから書いておりますがいかんせんただの雑記ブログなので学術的な考察などは入れてません。そういうのが見たい人は専門家の記事などを参照してください。


「困った人」とは

最近、SNSの私のタイムラインで、ある「困った人」に関するビジネス書が話題になっています。まだ発売前なので読めていませんが、ちょっと差別的な内容が含まれているため、買いたくないんです。ただ、ニュースを見ていると「これはちょっとまずいな」とモヤっとしました。内容としては「この人、職場で困るよね~」みたいな話で、しかもサルやナマケモノなどにカテゴライズされています。その中で私は「いや、それって『困った人』じゃなくて『困ってる人』じゃない?」と思いました。

たとえば「空気が読めない」「自分のやり方に固執する」「反応が薄い」といった点。それ、実は特性であって、ある意味“設計上の仕様”なんです。特性や病名そのものをマイナス評価するのは、そもそもその障害自体に「現行の社会人基準に不適切な要素」という価値観を前提としているように感じます。これは「困った人」ではなく「困っている人」なのでは?


困っている人は本当に「困った人」なのか?

個人的には、「困った人」というのは、パワハラ上司や役員など、精神疾患の原因となる行動をする人々のことだと思っています。私の持論ですが、これが「困った人」のひとつの定義だと感じます。

一方、書籍で紹介される「困った人」は、実際には自分が困っているケースが多いんです。たとえば、指示の背景がわからないと動けないとか、優先順位の判断が苦手だとか。それって「怠けてる」とか「協調性がない」とは違いますよね。しっかりした理由があって、ロジックで教えるとすぐに動けることが多いです。「あるある」な話なんです。

ただ、職場でのスタンダードが「阿吽の呼吸で察して動く」だったり、「先輩の背中を見て学べ」だったりすると、発達の特性を持つ人たちはそこでつまづくことが多いです。スタート地点がそもそも違うのに、同じルールで競わせるのはフェアじゃないですよね。レースの世界だって賛否両論ありますがBoP(バランス・オブ・パフォーマンスの略で、どのマシンも同じ速さになるように性能調整を行う仕組み)っていう概念があるくらいです。


日本企業のフォーマット、何を生み出すのか?

日本の企業文化では、「みんなと同じようにできること」が合格ラインというのが暗黙の了解のようにあります。空気を読む力、曖昧な指示に従う力、場の雰囲気に合わせる力……。これって、実際には仕組みが不備で、担当者がその場しのぎでカバーしているだけのように感じます。

でも、これって発達の特性を持つ人にはハードモード。つまり、最初からルールブックが手元にない状態で始めさせられているようなものです。本人のポテンシャルや意思に関係なく、環境とのマッチングの問題でつまずいているだけなんです。

その上で「努力不足」と言われると、本当に泣けてきます。努力でどうにもならないことがあるし、それでも努力はしているんです。


努力と結果の関係

もちろん、実際に数えているわけではありませんが、努力している人はたくさんいます。けれど、空気を読む練習をしたところで、元々そのセンサーが備わっていない場合、どうにもなりません。判断基準がロジックではなく感覚の場合、その「なぜそう感じるのか」を言葉にするのも難しい。

これ、結論から言うと「障害の治癒」が目標になってしまっているんですよね。他の障害ではあり得ない考え方です。確かに改善はできますが、治癒はしない。障害そのものが低評価・ジャッジの要因となるのは、非常にグロテスクです。障害を持つ人々は社会的にヘイトを背負わされがちで、犯罪者みたいな扱いすらあるので非常に非情なくらい救いがありません。

その上で、方向性が見えないまま「頑張れ」と言われるのは、まるで霧の中を走らされているような感覚です。「努力が足りない」と言われることで、どれだけ追い詰められるか。これ、当事者にしかわからない現実です。

時には過剰適応が起こり、極端なパターンだとプロスポーツ選手並みのストイックさを求められることも。そんな生活、誰が望むんでしょうか?自分のメンタルを守るために障害を自分の行いのせいにしてる人も見かけたことがあります。

実は、問題の本質は「仕組み」にあるんじゃないか?

よく見かけるのが、日本の企業にありがちな、フレームワーク(仕組み)がしっかりしていないフレームワークです。フレームワークじゃないフレームワーク、「KONJOU」とでも呼びましょう。組織の不備を担当者が個人の力で何とかするパターン。これ、実際には仕組み化が進んでないから、担当者が力技で解決しているだけなんですよね。そんな企業が多いのが現状です。


集団主義と暗黙の了解

日本の文化には、集団主義が深く根付いていて、個人よりも集団の調和を重視する傾向があります。だから、チームや組織の中では、暗黙の了解でお互いの意図を汲み取ることが重要視されます。明文化されたルールや頻繁なコミュニケーションよりも、長年の経験と信頼に基づいて、言葉で伝えなくてもお互いに理解されることが多いんです。こういう文化は、「不言実行」や、あえてルールを明文化しないという風潮を生み出します。


上下関係と年功序列

日本企業では、年功序列や上下関係が色濃く残っているところも多いです。これが、コミュニケーションに大きな影響を与えています。上司から部下への指示がはっきりしないことがよくあって、その代わりに部下は「空気を読む」ことが求められます。この「空気を読む」文化は、言葉にせずとも意図が伝わる関係を作りやすくし、アクションが重要視される「不言実行」の価値観を支えることになります。


リスク回避と過度な計画重視

日本の企業文化には、リスク回避や慎重な意思決定が根強く求められています。だからこそ、あまり明文化されたルールや指示がない方が柔軟に対応できるという考えが広まっています。特に新しい取り組みをする際、過度に計画を立てたりルールを設けることで、逆に自由度を奪ってしまうことがあるんです。


間接的なコミュニケーションスタイル

日本では、直接的なコミュニケーションを避ける傾向があり、間接的に物事を伝えることが重視されます。そのため、明確な指示が少なくても、相手の意図や行動を読み取って理解することが求められる場面が多いです。この「間接的なコミュニケーション」こそが、言葉少なで進めることを可能にする文化的背景を作り上げているんですね。


これでは、実際にその環境にいる当事者たちは、まるで我慢の耐久レースのように感じてしまうでしょう。


今、求められるのは「指示待ち人間」ではなく…

さて、ここで少し視点を変えてみましょう。今の時代、変化がものすごく激しいです。「言われたことだけやっている」とか「同じことを繰り返してればOK」というタイプの人たちは、むしろ辛くなってきている気がします。例えば、感染症や世界情勢、ビジネスの加速による変化などで、環境が目まぐるしく変わっています。

AIや自動化でルーチン業務は減ってきて、マニュアルなしでやらなきゃいけない仕事が増えています。そうなると、ますます「枠の外から考えられる人」や「既存のやり方に疑問を持てる人」の存在が重要になってきます。

実はこれ、発達障害のある人たちが得意とする、「枠を飛び越える力」や「新しいルートを見つける力」が歓迎される時代になってきているということです。今の時点では残念ながらその多くは、いまだにいい椅子(役職)にはついていないのが現実。とはいえ、どこかで「きっかけ」があれば、急に状況が変わる可能性も十分あります。


多様性と「別のゲームのプレイヤー」

「多様性」や「包摂性」といった言葉、最近よく耳にしますが、正直言って、私はあまり好きではないんです。SDGsや多様性の言葉も飛ばしてしまうくらい。それに、上からの視点で「優しく見守りましょう」的なニュアンスが強く感じられるんですよね。「配慮すべき存在」という立場にされてしまうような印象。

でも、本当に必要なのは、「優しさ」ではなくて、彼ら・彼女らが「別ルールのゲーム」で活躍するプレイヤーであることを認識することだと思うんです。まず、日本の型を壊すところから始めるのが一番早いと思います。エビデンスとロジックの裏付けがない日本式フレームワーク「KONJOU」を…


フィールドを変えれば「異能」が「才能」に

例えば、耐久レースに突然ロードレースの天才を連れてきたらどうなるか…と思ったけど、バレンティーノ・ロッシはGT3車両でも速かったですね。気を取り直して…要は、フィールドを変えれば“異能”が“才能”に変わるということ。発達障害のある人たちは、単なる劣ったバリエーションじゃなくて、ある意味「別フォーマット」の人たちなんです。

現在の状況では、2ストバイクに4ストオイルを入れるようなもので、無理に既存の枠に押し込めようとすると故障(メンタル不調)してしまいます。でも、それを治すのではなく、最初から「別フォーマットのままで活躍できる場」を作ればいいんです。この国は、すでにもう「統一された価値観」のもとで生産された人々だけが活躍する時代ではないのです。


ゲームチェンジャーとしての発達障害の人たち

発達障害のある人たちが社会のルールを変える存在になる可能性もあると思うんです。例えば、今までのやり方に固執せず、自由な発想で新しい働き方やチームの在り方を提案することができるかもしれません。

イノベーションを成し遂げた企業には、共通する大きな特徴があります。それは、「現状維持をしていない」ことです。どの企業も、今の次元から一歩踏み出して仕掛けています。もちろん、日の目を見ないことも多いですが、進化を起こすためには、既存の枠に囚われない発想が必要です。


社会が気づくべきこと

だからこそ、今問いたい。もしかしたら、今の社会で最も必要なのは、実は発達障害のある人たちなのかもしれません。これまで「困った人」として扱われてきた人たちが、実は「答えを知っている人」だったとしたら──

それって、かなりワクワクしませんか? 私は、そういう未来を見たいと思っています。

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